地名の由来と歴史

●地名の由来

昔、このあたりは見渡す限りの茅野原(かやのはら)だったそうです。
新編武蔵風土記稿』(1800年代前半に編まれた武蔵国の地誌)では、「寛永年間(1624年以降)の頃、日々千駄の茅を刈り取ったことからこの名が起こり、正保年間(1644)には千駄萱村と書きました。」とあります。
現在の「千駄ヶ谷」と書くようになったのは元禄年間(1688年以降)と伝えられています。

また一説によると、「昔、太田道灌がこのあたりを巡見したとき、谷間に栽培されている稲が千駄もあったので、千駄ヶ谷と名づけた」とも言われているそうです。
*駄とは、馬1頭が背にする荷物を数える単位で、千駄とは、”それほどたくさん”という意味です。

(渋谷区公式サイト|地名の由来 他より)

現在も、千駄ヶ谷に隣接する新宿御苑内には沢山の「かや(茅・萱)」が生えています


〜江戸時代
1590年(天正18年)、徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に移封された際、鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務めたのが内藤清成(1555年三河国岡崎生まれ)で、同年9月、内藤清成は家康より四谷から代々木にかけて22万坪もの広い屋敷地を賜りました。その一部は現在の新宿御苑であり、現在の千駄ヶ谷地区には主に内藤家の武家屋敷や百姓地が広がっていました。

〜明治時代
明治になり、武家屋敷の跡地には町民が住むようになり、明治22年(1889年)、町村制施行に伴い「千駄ヶ谷村」「穏田村」「原宿村」の3村が合併して新しい千駄ヶ谷村が成立しました。

明治22年〜昭和初期の渋谷


〜昭和
そして昭和7年10月1日、大東京市が誕生し、新たに大東京市35区制が敷かれました。
千駄ヶ谷町は渋谷町、代々八幡町とともに「渋谷区」となりました。

昭和7年、東京市渋谷区成立時の渋谷

●青山街道
千駄ヶ谷大通り商店街のメインストリートは、かつては「青山街道」と呼ばれており、新宿から青山練兵場(現在の明治神宮外苑)までを貫く、交通の要となる街道の一部でした。

水色の線が「青山街道」。ピンクの線が現在の区界

現在は、代々木駅西口の交差点や線路、明治通りに分断され、判りにくくなってはいますが、今でも一本道の「街道」だった形跡はしっかりと確認することができます。(下のGoogleの地図で確認してみてください)
そして「青山街道」の名前は、今でも千駄ヶ谷四丁目、JR代々木駅西口と明治通りの間の踏切に残っています。
通りがかかったら、ぜひチェックしてみてくださいね!

交通とアクセス

電車ではJR中央線「千駄ヶ谷」駅、都営大江戸線「国立競技場」駅、また東京メトロ副都心線の「北参道」駅からのアクセスとなります。

主要な道路としては、地区の西寄りを「明治通り」、東寄りには「外苑東通り」が縦断しています。

徒歩でも新宿、原宿、代々木、外苑前、表参道、渋谷など色々なところに足を伸ばすことができる、とても便利な地域です。

千駄ヶ谷エリアの特徴

新宿や原宿といった賑やかな繁華街に隣接しながらも、緑が多く落ち着いた雰囲気を感じるエリアです。
「鳩森八幡神社」「将棋会館」「国立能楽堂」など、国内外から多くの観光客を集める名所や文化施設をはじめ、東京体育館「国立競技場」など大きなスポーツ大会が開催される施設も有しています。

▶︎千駄ヶ谷の名所

もう1つの面としては「アパレルの聖地」の顔もあります。原宿・表参道・青山といったファッションの街に隣接する立地から、千駄ヶ谷駅、北参道駅を最寄りとする地域には大小さまざまに100近いファッションメーカー・アパレルメーカーさんが本拠地を構え、日夜問わず街にはクリエイティブな人々が集っています。

歴史と文化と新しいカルチャーが共存する「どこか懐かしく、どこか新しい千駄ヶ谷」

ぜひ多くの方に千駄ヶ谷の魅力を知ってほしいと思っています。

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